山師、高田久夫(やまし、たかだひさお)
高田久夫さんは2013年、3月7日永眠いたしました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
千年後の屋久島の森を思う山師
昭和9年(1934)屋久島生まれ。
17歳から山で働き屋久杉の伐採、搬出、土埋木の伐り出しなど、さまざまな山仕事を経験。
かつての屋久島の山仕事を知る数少ない樵(きこり)の一人。
弟子たちへ山仕事の「技」を指導しながら、千年後の屋久島の森を思い浮かべ杉の苗木を植えつづけている。
山に仕事で入る回数は減ったものの、まだまだ現役。
また、研修会や依頼された講演などで当時、生活していた小杉谷の様子と山仕事に関する語り部としても活動されている。
有限会社愛林 代表取締役社長 / 2010年第51回グリーン賞受賞
本編写真:屋久島ガイド研修会「高田久夫さんと歩く小杉谷」「(有)愛林事務所展示室で高田久夫さんに聞く」同行取材
著者 高田久夫 聞き書き 塩野米松 表紙・口絵写真管洋志
発行所 株式会社草思社 1900円+税
※高田久夫さんの言葉がそのまま文章になっています。
【グリーン賞(林野庁林政記者クラブ賞)】
林材業界の隠れた功績者を発掘することを目的に毎年一人または一団体を全国公募で選定。
高田久夫さんは鹿児島県認定の伝統工芸品となった土埋木の利用、生産を提唱し、自ら30年以上にわたり生産に従事しているほか、現場で架線集材ヘリ集材地上作業、森林軌道保守など林業の伝統的技術を生かし、国有林野事業を通じて土埋木の持続的な生産に貢献したとして評価された。
※展示室掲示の大判写真は管洋志氏、モノクロ写真は寺本孝広氏撮影。
追悼…屋久島の山師、高田久夫さんのあの涙を忘れない…。
3月7日、(有)愛林 元代表取締役社長 高田久夫さんが亡くなった。享年80歳でした。
社長引退後は病気を患い鹿児島の病院で入院治療中でしたが、3月7日午後6時24分、心臓系の疾患で帰らぬ人となりました。葬儀はご親族のみですでに済まされており、今日31日午後12時より、公の場(屋久島葬祭斎場プルマージュ(安房))で、高田家・(有)愛林、合同のお別れの会が執り行われました。会には関係者、高田さんと親交があった方々、屋久島町長、林野庁屋久島森林管理署署長、MBC南日本放送、南日本新聞の取材など300人以上が参列しました。高田さんのお人柄、何よりも屋久島に多大な貢献をされたことは言うまでもありません。
今朝から冷たい小雨が降り続いて、高田さんを偲ぶかのような涙雨の中、高田さんと親交があった、オカリナ奏者・宗次郎さんが、高田さんのために作った曲の演奏で始まりました。(高田さんと宗次郎さんは、KKB鹿児島放送局開局15周年記念番組で、お二人が一緒に石塚山に登り、頂上で宗次郎さんが高田さんに贈った曲を演奏したことが、ご縁のようです。私が屋久島に移住した年で、この番組ははっきり覚えています)
祭壇にはたくさんの写真と、生前高田さんがご出演されたテレビ番組の映像が流され、豪華な花ではなく今、里や山で咲いている山桜、アセビ、ツツジの花が飾られていました。山を愛した高田さんにふさわしい演出だったようです。それと高田さんが一番好きな食べ物で、カライモ(サツマイモ)の天ぷらが供えられていました。
宗次郎さんの演奏が終わり、読経を聞きながら遺骨に目をやると、あ~ぁ、逝ってしまったんだな~と実感して生前のことが蘇り、涙があふれてハンカチで拭いても拭いても止まりませんでした。
読経が終わり屋久島町長、森林管理署署長の弔辞のあと、(有)愛林を代表して高田さんの弟子でもある、本田竜二さんが「社長に追いついてやろう!追い越してやろう!と思って頑張っていたけど、怒られてばかりで一度も褒められたことはなかった!。追い越せないまま逝ってしまって…、今度は天から雷を落としてください」と師匠にお別れの言葉をかけていました。
最後にご子息で喪主・高田和久さんが、参列者にお礼の謝辞をのべられ 「おやじが亡くなったことを知らせずに申し訳ありませんでした」 と謝罪の言葉から入り 「俺が死んでも葬式はするな!…これが親父の遺言でした」。 そのためお別れの会になったと思われます。 「祭壇の飾り付けは私の想いでこうしました」 また、白い布で覆われた遺骨の上に 「赤いツツジの花二輪を置いてたんですけど、宗次郎さんの演奏が終わると一輪だけが転げ落ちました。たぶん、おやじが喜んでくれたんだろうな」 と話された。それと 「赤いツツジには思い入れがあって、おふくろが33年前亡くなった時、葬儀をしたのが今日と同じ3月31日でした。そのとき、おやじがおふくろに赤いツツジを乗せてあげたんですよ」 とも話され、親子の思いがあったようです。そして「おやじは真実一路でした!」と言葉少なに話され、「そこから戒名を「真実院釋山守」と、私が付けたのだけど、いろいろ反対されました。しかし、なにがなんでもこれを付けたかった」と話されていました。
弔辞と謝辞が終わると参列者の焼香が始まり、午後1時半ごろ会は終了しました。
そのころには雨も止んでどんよりとした空でしたが、高田さんは皆さんに送られ、果てしなく遠い黄泉路の世界へ旅立たれたようです。
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高田さんは昭和26年、17歳で小杉谷に入り屋久杉伐採の木寄せ(伐った木をトロッコに載せるために山から運び出す)という仕事に携わり、昭和57年の退職まで営林署職員として天然木の伐採にかかわり、その後は屋久杉工芸品となる土埋木搬出の仕事に就きました。後に、次世代に経験や技術を引き継ぐため(有)愛林を設立し、林野庁屋久島森林管理署の仕事を請け負い、後継者(弟子)を育てながら77歳まで現役の山師として山に入っていました。この間に、屋久杉伐採や小杉谷に居住していた時の様子など、当時を知る者の一人として講演依頼があり、積極的に足を運んでおられました。
特に印象的だったのが2011年6月28日、岩手県から国立大学法人岩手大学教育学部附属中学校の3年生158名が、学習旅行で屋久島を訪れた際、安房総合センターで、同校から講演を依頼された高田さんは「屋久杉を伐採したことや自分たちが伐った森の500年後、千年後を見てみたい」など、生徒に語りかけるように1時間あまり話された。そして講演のお礼として生徒全員が高田さんに心を込めて贈ったのは、当時生活されていた小杉谷の、小杉谷小中学校校歌の合唱でした。そんなサプライズもあり、高田さんが壇上から下りてたくさんの拍手で送られ、退場される時(写真)、感極まって涙を流された。「鬼の目に涙」ではないですが、仕事中はかなり厳しい方で、朝から夕方まで弟子達を叱り続けていたように思います。今となってはそれが高田さんなりの愛情ではなかったかと思います。わずか14年間ぐらい高田さんを、事あるごとに記録写真として撮らせて頂いていた中で、初めて涙を見た瞬間でもありました。あの涙は今でも忘れることはできません。
2年前の3月、当HP開設の時にHumanページで、高田久夫さんご本人と、高田さんが代表を務める(有)愛林の仕事を広く知ってほしいため、掲載の許可をお願いにご自宅へ伺って、お話をしたところ「そういうことばさ、ほんとは地元んしがやらんといかんのやけどな~、うん、よかよのっしくれ」(そういう事を、ほんとは地元の人(屋久島で生まれ育った人)がやらないといけないのだけどな~、はい、いいよ載せてください)と快く笑顔で承諾して下さいました。引退前に森の中で、土埋木の伐り出しをしている姿を撮れなかったのが一番悔やまれますが、できる限りの記録を残せたと思っています。ただ、屋久島の生き証人の灯火がまた一つ消えたことは、とても悲しくて残念!でなりません。
高田さん、今年も小杉谷の山桜はいっぱい咲いていましたよ。
毎年トロッコで走りながら、笑顔で山桜を観る姿が懐かしく思います。
山を愛し、森を愛し、人を愛した高田さん。これからも石塚山から見守っていて下さい。長い間ご苦労様でした。そして、ありがとうございました。
さようなら……。
※高田さんが亡くなられた時、ご子息の意向で訃報はごく一部の方のみ知らされただけで、公表はされませんでした。情報は入っておりましたが、その意向を尊重しましてお別れの会が終わるまで、掲載を控えさせていただきました。